昭和42年9月25日 夜の御理解
今日、久留米の御霊様のお祭りでございましたから、次々に迎えに参りましたから、あの、それに間に合わなければならんと思うて用意しておりましたら、遠方から、北九州の方、それから、熊本。次々と遠方から参って見えましたから、ちょうど私が出掛けに参り、まあ、大変喜んで。
ちょうど私も、まあ、おかげで良い御取次をさせて頂いたんですけれども。その中の一人の方の中にですね、二十年間、お母さんが亡くなられた時に、兄さんと私との仲をその、その方ですね、女の方ですけれども。兄さんと私の仲を中傷して、今にも、その兄弟、ものも言わん言うていない、なら、その東京におられる方だそうですが。それを、その、中傷した人のことをです、二十年間、恨み続けておると、こう言われる。
二人の兄さんがおられたが、自分の好きな方の兄さんが戦死された。そして、もう、嫌いで嫌いでたまらんという、その兄さんが、あの、生きて帰って来られた。もう、この方は、兄弟だけでも、だいたいが、その、ものでん言おうごとなかごたる、まあ、兄弟だったらしいんですけれども。
まあ、そのこと、そういう事になってからのことでしょうけれど、ある、第三者の方から中傷されて、その、まあ、兄弟喧嘩せんならんようなことが起こって来た。
二十年間、恨み続けておる。もう、それは、今日はもう、涙ながらに話されるんですよ。いつかは、その、その方に、どうしても、一遍その、誤解を向こうがしておられたならば、誤解を解かなきゃならない。それを言うて返さなければならない。都合で今日は、帰りにその人のところに寄ろうと思いますが、どうでしょうかというお伺いでした。で、私は申しました。
もう、二十年間。良うあなたそん、恨み続けたもんじゃあるねち言うてから。あなたも大変な執念深いですな。もう、このことだけは、もう、忘れられませんち言うて泣かれる、その二十年前のことを思いだして。それが話を聞いてみると、そげん、その、のことじゃないですね。どういう事かと言うと、まあ、私たちから言うなら、問題にもならないようなことなんです。
私は、だから申しました。遠方からこうやって、何回か参って見えるんですけれども、この頃、つづけてお参りしたけど、とうとう、その日はお会い出けなかった。今日はお会いが出けてと言うて、まあ、お届けをされるんですね。それで私が、もう、そういうような根性はね、神様は一番お嫌いになること。
憎いとか可愛いとか、ね。または、惜しいとか欲しいとか、恨みとか辛みといったようなもの。ね。恨みというような、そういう、惜しい、欲しいというような心が、神様は一番お嫌いな心なんです。ね。人を恨むといったようなことは、もう、その心だけでもおかげは受けられない。
しかも、二十年も、それを恨み続けて来てですね。私は申しました。あなたが本当におかげを頂くように、そげなことは、もう、そういうことは水に流してしまいなさいて。私が頂いておる御教えの中にね、もう、信心させて頂く者は、いつも、どういうことがあっても、もう、流れ川三尺。どういう、その、いわゆる、その、汚いことがあっても、悲しいことがあっても、恨まにゃおられないことがあってもです、もう、流れ川三尺。もう、次々と清めて行かなけりゃいけない。
どんなに汚いものを洗ってもです、もう、三尺流れたら、また、こうやって、食べ物でも洗えれるというぐらいに、その、なからなきゃいけない。と言うて、まあ、お話させて頂いて。それで、もう、先生、なら、どうぞ今日は、その、心の上におくり合わせを頂いてから、その恨みが解けますようにと言うて帰られたんですけどね。
例えば、そういうようなものが持ち続けられておってですね、おかげの頂けるはずはないです。もう、今日なんか私どもは、まあ、もちろん朝の御祈念、それから、奉仕、久留米、と。そして、今、行きがけまで、今のその方と、妹の方の、この妹の方も、どうでも、まあ、大変に聞きよってから、もやもやするような働き。その、まあ、どうして本当に、いつまでも分からんですかと言いたいようなだけれども、まあ、その人は、これで、やっぱり、こう信じるんですから、やはり、その人の身になって、御取次をさせてもらわなければならんのですから。
まあ、そんないっぱいの御用を頂かせてもろうてから、久留米に参りました。で、久留米でも、もう、万事に順調におくり合わせを頂いて、お祭りを仕えて。それから、御直会を頂き終わったのが、もう、四時でございましたでしょうか。で、今日は、内田さんと久保山さんとが、あの、お芝居のふだを用意しておって下さいましたから、親子が、私ども4人と、おじいちゃんと家内と、それから、まあ、長女と4人で、もうすぐ、あの、宴の側でございますから、古賀さんが見えておったから、送ってもらって。
ちょうど参りましたら、もう、あと十五分で開幕というところでございました。そのお芝居を見せて頂いて、もう、場所は別々でしたけれども、ちょうど私が頂いておるフダのところに席が、もう、ぜんぜん見えない方がございました。そこに、みんな揃うてからお芝居を見ることが出けたんですけれども。
お芝居。そして、帰って、済んだのが、もう、八時でございました。で、帰って、お風呂入って、今晩の御祈念でございます。ですからね、例えば、そういう神様のお心に通わないようなものでも持っとったんじゃ、もう、どの一つだって出来んのですよ。
もう、本当にどのような場合です、ね、例えば、ここにおる時に、御霊のお祭りをしておる時、または、お芝居を見ておる時。もう、ぜんぜん、やはり気分は違うんです。けれども、それがいつも、こう
流川三尺。ね。以前は、何とはなしに、私は芝居が好きですから、あの、から芝居を見ると、もう、とにかく、一週間ぐらいは、その、芝居の情景が頭に浮かんで来てですね、行けなかったという、この頃、おかげで、そういうようなことでも、そんな好きなことでも、もう、さっさとこう、流して行くことが出ける。もう、只今の御祈念なんかに素晴らしい場面があったんですけれども、その場面を思い出そうともしなかった。おかげを受けたもんじゃあるなと、自分では思うとる。以前はね、もううほんとに、うごかなかった。ところが段々、流川三尺のけいこをさせて頂きよったらおかげを頂いてどういうことでもそれがいつでもさらさらと次のお取次ぎが、次の信心が出けれる心の状態にあるということが、有り難いと思うですね。皆さんが例えば、まあ、二十年も恨み続けなさるようなことはありもしますまいけれどもです、ね、そういうような、例えば神様がお嫌いになるような心というものをです、取り除かなければならん、あるのですから、お互いの心の中に実は。ね。
ですけれども、あっても、それを一つ、流れ川三尺の字の通りにです、心の中がスキッと、次の新しい信心。次の新しい喜びを頂けれるために、そこんところの修行がなされなければいけない。心の中がいつも、いわゆる、さらで、次々とどのようなことで取り組んでも、それが信心に成されて行くようなおかげを頂かなきゃいかんと思うですね。どうぞ。